筋の良いシロートでありたい

いなばさん日記から、去年2月19日のインタラクティブ読書ノートを読む。

(専門家がトーシローに向けて書く作法について、「"素人たる読者に確実に届くような作法を工夫している社会科学"の称揚は、意地悪く言えばノスタルジーに他ならない」とした上で)
 「啓蒙の限界」、ここでの文脈で言えば「啓蒙書の限界」とは何か? それは「先端的な学術的専門書が同時に「素人としての読者」に読めるような啓蒙書でもあることは、普通はできない。特定の書き手が個人的にそれを目指すのはもちろん自由だが、それを普遍的理想としてならない」ということだ。そして反対に「「素人としての読者」に読めるような啓蒙書が同時に先端的な学術的専門書でもあることは、普通はできない。特定の書き手が個人的にそれを目指すのはもちろん自由だが、それを普遍的理想としてならない」ということでもある。啓蒙という作業は先端的研究とは無関係にではないが、しかし基本的に独立に、固有の次元にある作業としてなされねばならない。
 繰り返しになるが、啓蒙は「玄人=専門家が素人のところまで降りていく」ことでもないし、また「素人を玄人のレベルまで引き上げる」ことでもない。あえて言えば(またしても野矢茂樹の言葉を借り)「ずぶの素人を筋金入りの素人にする」ことであり、そして「玄人に自らもまた自分の畑を一歩出れば素人であると自覚させる」ことである。ここで真の問題は「ずぶの素人に入れる筋金とは何か?」であろう。

 時間的負荷が極めて高い環境で仕事をしていると、自分の専門性を高めることに加えてどれだけ(自分がそこでは素人であるところの)"他所の庭"の専門家の能力を上手く使うか、がキモになる。業界十ウン年の中間管理職グループ(たいていはこちら=余所者に対してネガティブバイアスな視点を持ってて、でも彼らの協力がないと仕事にならんので対等に話せる理論武装必須)と月曜に打ち合わせ、でもって自分はこの業界の素人、今日は金曜午後1時、てな状況です。どうすべきかはここには書かんが、まずユーザー=マーケットありき、のような上記ビジネス環境では、玄人の限界と素人からの脱却は日常的課題として常識化していると言ってよい。ちなみに、上に書いたのは決して"一般的な"ビジネス環境ではないです>ビジネス経験のない諸氏
 問題は、アカデミックな世界でどうかなんだが、これはサプライヤー(専門家)サイドの自助努力に頼るしかないんすかね。私個人は、"筋金入りの素人"にはなりたいと思うが、なんせ時間的負荷が厳しすぎる生活をしているので筋金も不良材質化。
(以下2005/3/25追記)
「不良材質化」は「材質以前にそもそもネタがちゃんと入ってねえぞプゲラ」に訂正。己の痛さに猛省しております。