「崇高」なる天皇制とイマドキの保守

http://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200602050000/
http://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200602070001/

真性保守は理屈を超越(すくなくとも相手にしない)しており、であるがゆえにライト保守的言説の跋扈は保守本来のパワーダウンの裏返しである、と。しかし、本当にそんなうまく行くのか? 保守的言説に踊らされない無関心層がライト保守になり、結局ライト保守的言説で埋め尽くされるだけなんじゃね? それはそれで息苦しかろう。
それとも、真性保守と真性左翼が手を握って小泉野郎・女郎と対決? 三島・全共闘の喜劇の繰り返し?

なんとなくだが、戦争体験が社会から消えたことが、昨今の息苦しさに影を落としている気がする。ドンパチやったら「真性」に対して免疫ができる上に、"小泉化"にも走らない社会意識が醸成されるんじゃなかろうか? 三島がボディビルで武装したのだって、ほんとは"ドンパチ"が怖かったからだろ? 中曽根やナベツネから作田啓一に至るまでの冷めた視線に共通するものがあるような気がする。
そういう意味で、ドンパチの疑似体験としてのゴール裏という場を考える、という試みを、誰かやってくれないかなあ。