文学はゴシップである、とは小谷野敦の言だったと思うが、最近、続けざまに文壇の「中の人(=編集者)」本を読んだ。
(元講談社の)中島和夫『忘れえぬこと忘れたきこと』(武蔵野書房
(元筑摩書房の)野原一夫『編集者三十年』(サンケイ出版)
(元筑摩書房の)柏原成光『本とわたしと筑摩書房』(パロル舎
(元講談社の)大村彦次郎『ある文藝編集者の一生』(筑摩書房
「個人的に面白かった」順に並べてある。柏原成光の本のみ新刊、あとは古書です。

 文学者の臭気にこんなにもまみれながら、なお"文学道"を疑わない中島和夫が一番面白かった。中島は以前『文学者における人間の研究』(武蔵野書房)を読んで気になっていたのだが、とても感情移入を伴う読書なぞできない文学者の俗気紛々たる環境で、それでも純文学の隆盛を願いながら激務をこなす日々は、ちょっと想像するのも難しい。ある意味異人種・宇宙人と呼んだほうがふさわしいような文壇人を上手に転がし、それでもその世界で生きることに生き甲斐を見出すというのは並大抵のことではなかろう。よほど好きじゃなけりゃできないだろうな、ということです。

 私の最近の古書通いも、文学書漁りが専らです。上記みたいなコテコテでいやらしくて恐ろしくてちょっと悲しい人間模様を感じたいという思いがあるようです。「くさやの干物」クラスじゃないと受け付けなくなってきている気がする。「普通の」ものは、何が普通かと言われると困ってしまうが、マックのハンバーガーかコンビニ菓子くらいにしか感じない。

 先日京王百貨店古書市で、洲之内徹の気まぐれ美術館シリーズの未入手2冊(『セザンヌの塗り残し』『人魚を見た人』)を、ちょっと高価だったが買ってきた。1冊が各2,500円也。この洲之内もそうとう臭う。カレーじゃないが、大原富枝『彼もまた神の愛でし子か』(ウェッジ文庫)読むと臭味が5倍増になる。当然その大原富枝も「臭い」わけで、大原が犬との生活を綴った『三郎物語』(中公文庫)をこの日記で以前に紹介したことがあるが、文学者の臭気への中毒が強くなったのはあの頃からかもしれない。猫の本ばかり読んでるわけじゃないんです。

上記書籍中、新刊は『彼もまた神の愛でし子か』『本とわたしと筑摩書房』。どちらも書店の棚から消えたらおそらく入手できなくなると思われます。昨今、臭いものはすぐ遠ざけられますから。