引き続き「毎日とおさん」

やはり道場親信『占領と平和―〈戦後〉という経験』(青土社)も読まんといかんようである。
久野収鶴見俊輔小田実、先ごろ遺稿集が出た福田定良(早くもBK1から消えてる)。俺にとって、福田といやあ学生時分に"ギョーカイ"(←死語)御用達の「広告批評」に雑文書いてたおじさん、という認識しかない。久野収佐高信あたりが付けたサヨク反体制派のイメージだし、小田実は朝ナマに出てくる声のでかいヲヤヂになってしまっているんじゃないか? 『何でも見てやろう』なんて今読まれてるんだろうか?
自戒を込めて書くが、本人のかつての実績をロクに知らんと分かったつもりになるのは大変に危険。福田が50年代に鶴見俊輔の民衆芸術路線に影響を与えたなんざあ、中年の俺だって最近までまで知らんかったわけよ。ましてや今どきの20代は「ハア?」だろう。戦後史の見取り図として、小熊英二『<民主>と<愛国>』はとても重要で、たとえば「第一の戦後」(55年体制前)と「第二の戦後」(いわゆる"戦後民主主義"批判の矢面に立たされるのはこちら)の違い、特に「第一の戦後」の多様な可能性が忘れ去られた後「第二の戦後」による戦後史がドミナントになっていく様は、坂野潤治がくしくも近代日本のデモクラシー導入過程において喝破したように、「もっぱら欧米の知識が(再)導入され続ける一方で、近い過去の蓄積は常に忘れ去られる」のと全く同型なわけです。
あるいは、柄谷行人日本近代文学の起源』が指摘した、明治10年代に輸入された言文一致が歴史のレンズとしてその後の日本人の認識を支配している構図だって同じじゃないか。

  • こういうアクロバチックな洞察がこの人の魅力だったのに、柄谷だってそのうち「ああ、NAM教の人?」とかで片付けられちゃうんじゃなかろうか。え、それが嫌なんで岩波から著作集出したの?_| ̄|○

いやとにかくね、どんどん息子は大きくなるし娘は宇宙人になるしで、次の世代に自分は何を渡しゃあいいんだという不安が日増しに大きくなる俺を、誰か何とかしてもらいたい。「教科書」、「筋金」、いや針金でもいいのよ。