違う路線

上の本は例外で、最近はブンガク作品を読み飛ばしております。
乱暴な言い方だが、これまではブンガクは「知的営為」じゃないと思っていた。大岡昇平大西巨人のような、"知に勝った"小説だけが読める文学だと思っていたところがあった。
「考えない」人が書くものだから、出来上がったものは「理解」せずに「感受」するのだと思っていました。そんなもんどこが面白いのかと。おまけに、「考える」人がブンガクを語ると、テキストなんちゃらとかみょーに詰まらん方向に行く(かつてはそれが知的好奇心に触れたときもございましたが)ので、なおさらブンガクを避けていた原因のように思います。「考えない」ブンガクと、「考える」けどブンガクをダシにして違うことが言いたい言説の2種類しか見えてなかったと申しましょうか。
今更ながら、文学というのはとても「知的」なことなのではないかと最近思い始めています。後藤明生に始まり梅崎春生武田泰淳古井由吉ときて今は有島武郎或る女』。『或る女』すごいです。大正初期に書かれたのに、現代小説そのままの文体。ああいう特異な女性の人格造形はどうやったら書けるのかと思う。

ああ、最近読んだ中では、京極の新刊は面白かったです。前作・前々作よりずっと良くなった。

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

このシリーズは、京極堂と榎木津以外が語り手になり得、全員どこか「壊れて」いる、というか表象界と現実界が脱臼してしまった連中で、京極堂の憑き物落としは表象界の再接続であり、榎木津は「物自体」からの侵犯による"治療"なのだと。
うん、やっぱりつまんないね、こういう「考える」ダシにするような解説は。やっぱり文学読もう。