これは予言ではない

久しぶりに、閉鎖した前サイトに書いた日記を読んでいると、2002年6月27日に書いた戯れ文が出てきた。「これは予言ではない」というタイトルがついており、2002年W杯の韓国vsスペイン戦の後で書かれている。

  • 文自体は、とある一文のパロディであり、トータルとしてのメッセージにさほどの意味は無い。「イスラム原理主義」を「フットボール原理主義」と置き換えたら面白かろうというのが、このパロディを作ったきっかけだったはずだが、今にして思えば、そのこと自体は陳腐なロマンチシズムでしかなかった。
  • ただ、このパロディの元ネタを書いた人物から私が学んだのは、現象ではなく構造を見ろということだったと思う。であるなら、思考のパーツを任意に置き換えても、構造自体の強度が十分であればそれは文脈を超えたインパクトを持つはずである。実際、「フットボール」「資本」「国家」というターム間の結びつきは、これを書いた時点よりもはるかにリアルに見えているではないか。
  • さて、我々(フットボーリスト)はどこへ向かうのか。次なる戦争を予期した「戦前」(W杯前、ではない)の思考が必要なのか。

 私はこの日記で、今回の騒動を予言していたと書いた。別のところでも、同じようなことを言っている人たちがいた(「アカシックレコード」)。それはまちがいだ、とはいわない。しかし、私は予言をしたわけではない。サッカーの構造論的反復性について語ったにすぎない。
 私はこの種の予言を否定する。しかし、もしそのように書かれているのだとしたら、一つだけ同意するところがある。それは「今回のW杯に勝者はない」ということだ。欧州は、韓国を攻撃するだろう。しかし、それは何の証拠もないのだから、たんに、フットボール発展途上諸国の間に、フットボール原理主義の拡大を招くだけである。UEFAや欧州諸国や日本による攻撃は、フットボール原理主義をますます強くする。国家を制裁することはできても、彼らを駆逐することはできない。これは予言ではない。
 フットボール原理主義は、資本と国家を「否定」する革命運動であって、現在の世界資本主義の中から、そして、それに対抗する運動の無能さ・愚劣さから生まれてきたものだ。それは、第三世界の「絶望」の産物である。このような運動によって、資本と国家を揚棄することはできないことは自明である。しかし、いかに空しいものであれ、これを滅ぼすことはできない。これを生み出す現実を「揚棄」しない限りは。フットボール先進諸国は最も恐るべき相手と「戦争」――戦争は国家と国家の間において存在するのだから、これは戦争ではない――を始めるのだ。当然、この「戦争」に勝者はない。国家と資本は自ら墓穴を掘るだけである。これは予言ではない。
 今後、日本では、代表監督選考をはじめ、次回W杯への準備の名の元に日本サッカー協会による統制が急速に推し進められるだろう。それに抵抗することはできないだろう。それはドーハの時にはじまったのであり、そのときに抵抗しなかった連中が今できるはずがないのだ。しかし、無力感をもつ必要はない。ドーハのころ、私は「W杯前の思考」について書いた。われわれは今「W杯前」に在る、といったのだ。しかし、1998年の時点で、私はもうそんなことについて一喜一憂する気はなくなった。W杯に向かうに決まっていたからだ。だから、そのころから、私は「W杯後の思考」について考え始めた。それは今回の大会後のことではない。これから起こる戦争の「後」のことだ。とはいえ、それは今大会の「戦後」と無関係ではない。われわれはあの愚劣な「戦後」をこそ反復してはならないのである。
 韓国人や欧州人の多くはすでに発狂している。日本人の多くもそうなるだろう。しかし、皆さん、絶望しないでもらいたい。四年後に、人は後悔するに決まっている。あるいは、あの時はだまされた、というに決まっているのだ。とはいえ、四年は長い。
 どうか、皆さん、国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめてもらいたい。そうすれば、四年後に確実に後悔するだろうから。その逆に、「戦後」に向けて、着々と準備をすることを勧めたい。ではどうするのか。ここで、それについて述べる余裕はない。