続き。
「私は猫ストーカー」、面白かったし楽しかった。
一見、猫を追っかける主人公を巡る人間模様を描いた映画なんだが、実は人間関係を猫間関係として綴ろうとしているんじゃないかと思った。登場人物全員がじつは「ネコ」なんだなあと思いながら観てました。映画館で映画を見るのはウン年ぶりだったのだが、お金払ったかいはあった。
こういう一節を思い出す。

 いうまでもなく、私たちは理屈の上では正しくネコをネコと見ている。ネコを人間と混同する擬人主義に陥る人間は、まず存在しない。だが、ネコに接する実際の態度、つまりどのような行動を彼らに向けるか、の点では完全に擬人主義なのである。私たちは事実上ネコを人間としてあつかっているのだ。では、ネコは人間をどう見ているのだろうか。
 ネコの立場は明らかに「擬猫主義」である。彼らは人間をネコに見立て、ネコの方法を持って人間に接し、あいさつする。
(中略)
 私たちは、ネコのある行為を見て、たとえば「楽しんでいる」と判断する。だが、その判断の基準は擬人主義であり、客観的に正しいものである保証はない。それゆえ、次にその判断に基づいて展開されるネコに向けての私たちの行動も、適切であるかどうかは疑わしい。さらに、その行動を受け止めるネコが、それを人間の意図どおり正しく読み取るものかどうかも、解らない。にもかかわらず人間とネコとの間には親密としか判断のしようのない関係が成立している。それはまさに驚くべきことである。
(「擬人主義と擬猫主義」、今泉吉晴『ネコの探求』より)

当該書は既に絶版だが、上記全文は、大きな書店のエッセイコーナーにはまだ置いてある

日本の名随筆 (3) 猫

日本の名随筆 (3) 猫

で読める。

土曜日、映画を見てから、もう一度くだんの古本屋に行った。ご婦人(ご夫婦で店をやられているようなので、本当は書店主と呼ぶべきなのかもしれない)は私を覚えていてくれたようだ。
また時間ができたらうかがいます。