保坂和志、エッセイは読めるが小説はちょっと、の話。
彼の小島信夫との書簡集や、田中小実昌についての文章は好きなのだが、小説、特に長い小説を読むたびに首を傾げたくなる。小説に作者が口を出すのが、「私はこう考える」が随所に出て来るのが、ちょっとやりきれない。そんなの全部カットして、読み手にそこを考えてもらう余地を作るべきではないかと思う。素人が何を偉そうに、ではあるが、作者の哲学を「文字通り読まされる」のは、ちょっと違うんではなかろうか。
例えば、

光というのがただ物理的に説明すれば終わるものではないということは、光が音楽のようだったり美術のようだったりする何かを起こしているということで、奥の部屋とそこに射す光の関係と同じことが浩介とブルースのあいだに起っていると言ったら褒めすぎになるが、とにかく浩介がブルースを弾いている二階に三人であがっていくと、森中は階段をのぼったあいだに人知れず白血病で死んでいく動物たちの話は忘れていて、(以下略)
(『カンバセイション・ピース』より)

斜線赤字の部分を全部削ったらずっと読みやすいと思うぞ。じゃあエッセイで彼の個人哲学がフルスロットルに開陳されたら読みやすいかというと、それはまた難しいところがあるのだけれど。

 人間は猫がいなくてもそう大したことはないと思う。猫がいなくても犬がいるし、鳥がいるし、魚とか、蛇だっている。でも猫にとって人間というのは、そういうのとは違う。人間はいわば猫の本体である。猫の本体が人間なんだから。
 そんなこと人間にいわれて猫も迷惑だろうが、それは仕方がない。猫は人間が本体だなんて、そんなこと頭で考えているわけではない。ただ猫の体がそう思って、そう振る舞っている。
赤瀬川原平「猫の戦略」、『ねこ新聞』より)

こういう文章なら分かるのだ、小説でもエッセイでも。田中小実昌だってこう書くだろう。でも保坂氏はそうじゃない。彼の小説を読むたびに赤ペンが頭の中で走る。

久しぶりに再開したと思ったらずっと猫の話ばかりじゃないかという外野の声があるかもしれない。すぐに手に取れる位置に猫関係の古本が集まっているだけなんだよ。お詫びにウチの1歳男子M氏の最新映像をお届けします。ちなみに人の言葉はまったく分からない(フリをしています?)。