読む方はそうでもなかろうが、ネットにアップするにはいささか長い。雰囲気を味わってもらうために、頑張ってタイプしてみる。

 しかるにゲンゾー(引用者注:町田氏が同居している猫の名前)の場合は、そうしてもともと飯に関して卑屈なだけに回りくどいというか、やり口が嫌味で、桶に鼻を突っ込み、まずそうだ、と思ったゲンゾーは自分が見ているのを充分意識して、というのはそれが証拠にときおりこちらをちらちら見ながら、桶の廻りの床を手で擦る。すなわちこれは地面を掘って桶を埋めているつもりなのであり、つまり彼がなにがいいたいかというと、
「飯がまずいからいまはこれを食べないけれども、マチダさんは吝嗇だからもしかしたら別の飯を貰えないかも知れないからそのときはこれを食べようと思うのだけれども、でもこれをこのまま放置した場合、ココア(引用者注:やはり同居している猫である)やマチダさんが来て食っちゃうかも知れないから埋めて隠しておいて後で掘って食おう」
ということを言っているのである。
 なんたらいやらしいことをするのであろうか。なんたら未練な奴であろうか。と、常々、思っていたらゲンゾーがまた無茶苦茶をしてくれた。と書いた以上、自分はみなさんにゲンゾーがどういう無茶苦茶をしたかを申しあげなければならぬのであるが困ったことにそれができない。
 なぜか? 私が嘘が嫌いなので正直に申しあげると、
「忘れました」
 すみま千駄ヶ谷。といって許して貰おうというのは甘いというのは分かっているのですが(めんどくさいので以下略)
町田康『猫にかまけて』より)

「忘れました」のところで声を出して笑ってしまったのだが、本を読んでいる最中に声を出して笑うというのはめったにない経験であった、ということが言いたかったのです。それから、文中2カ所の「なんたら」は「なんたる」の誤記ではなく原文ママである。全体的になんたらおかしな文章であろうか。
 しかしまじめな話、数多ある"猫本"の中でもコイツはマイベスト3に入る。いや、何回読んでもここでは笑ってしまうわ。

え、また猫の本の話かって? 大丈夫、今回の本は新刊で買えるのだ。恐れ入谷の鬼子母神

保坂和志、エッセイは読めるが小説はちょっと、の話。
彼の小島信夫との書簡集や、田中小実昌についての文章は好きなのだが、小説、特に長い小説を読むたびに首を傾げたくなる。小説に作者が口を出すのが、「私はこう考える」が随所に出て来るのが、ちょっとやりきれない。そんなの全部カットして、読み手にそこを考えてもらう余地を作るべきではないかと思う。素人が何を偉そうに、ではあるが、作者の哲学を「文字通り読まされる」のは、ちょっと違うんではなかろうか。
例えば、

光というのがただ物理的に説明すれば終わるものではないということは、光が音楽のようだったり美術のようだったりする何かを起こしているということで、奥の部屋とそこに射す光の関係と同じことが浩介とブルースのあいだに起っていると言ったら褒めすぎになるが、とにかく浩介がブルースを弾いている二階に三人であがっていくと、森中は階段をのぼったあいだに人知れず白血病で死んでいく動物たちの話は忘れていて、(以下略)
(『カンバセイション・ピース』より)

斜線赤字の部分を全部削ったらずっと読みやすいと思うぞ。じゃあエッセイで彼の個人哲学がフルスロットルに開陳されたら読みやすいかというと、それはまた難しいところがあるのだけれど。

 人間は猫がいなくてもそう大したことはないと思う。猫がいなくても犬がいるし、鳥がいるし、魚とか、蛇だっている。でも猫にとって人間というのは、そういうのとは違う。人間はいわば猫の本体である。猫の本体が人間なんだから。
 そんなこと人間にいわれて猫も迷惑だろうが、それは仕方がない。猫は人間が本体だなんて、そんなこと頭で考えているわけではない。ただ猫の体がそう思って、そう振る舞っている。
赤瀬川原平「猫の戦略」、『ねこ新聞』より)

こういう文章なら分かるのだ、小説でもエッセイでも。田中小実昌だってこう書くだろう。でも保坂氏はそうじゃない。彼の小説を読むたびに赤ペンが頭の中で走る。

久しぶりに再開したと思ったらずっと猫の話ばかりじゃないかという外野の声があるかもしれない。すぐに手に取れる位置に猫関係の古本が集まっているだけなんだよ。お詫びにウチの1歳男子M氏の最新映像をお届けします。ちなみに人の言葉はまったく分からない(フリをしています?)。

続き。
「私は猫ストーカー」、面白かったし楽しかった。
一見、猫を追っかける主人公を巡る人間模様を描いた映画なんだが、実は人間関係を猫間関係として綴ろうとしているんじゃないかと思った。登場人物全員がじつは「ネコ」なんだなあと思いながら観てました。映画館で映画を見るのはウン年ぶりだったのだが、お金払ったかいはあった。
こういう一節を思い出す。

 いうまでもなく、私たちは理屈の上では正しくネコをネコと見ている。ネコを人間と混同する擬人主義に陥る人間は、まず存在しない。だが、ネコに接する実際の態度、つまりどのような行動を彼らに向けるか、の点では完全に擬人主義なのである。私たちは事実上ネコを人間としてあつかっているのだ。では、ネコは人間をどう見ているのだろうか。
 ネコの立場は明らかに「擬猫主義」である。彼らは人間をネコに見立て、ネコの方法を持って人間に接し、あいさつする。
(中略)
 私たちは、ネコのある行為を見て、たとえば「楽しんでいる」と判断する。だが、その判断の基準は擬人主義であり、客観的に正しいものである保証はない。それゆえ、次にその判断に基づいて展開されるネコに向けての私たちの行動も、適切であるかどうかは疑わしい。さらに、その行動を受け止めるネコが、それを人間の意図どおり正しく読み取るものかどうかも、解らない。にもかかわらず人間とネコとの間には親密としか判断のしようのない関係が成立している。それはまさに驚くべきことである。
(「擬人主義と擬猫主義」、今泉吉晴『ネコの探求』より)

当該書は既に絶版だが、上記全文は、大きな書店のエッセイコーナーにはまだ置いてある

日本の名随筆 (3) 猫

日本の名随筆 (3) 猫

で読める。

土曜日、映画を見てから、もう一度くだんの古本屋に行った。ご婦人(ご夫婦で店をやられているようなので、本当は書店主と呼ぶべきなのかもしれない)は私を覚えていてくれたようだ。
また時間ができたらうかがいます。

先日、中野にある某古本屋に行った。猫に関する古書がたくさんある(ただし店には猫はいません)。私が狙っているのは猫の随筆/ノンフィクションの類い、あと文芸関係。
店内で鼻息荒くして(当日はえらく暑かった)たくさんの背表紙と格闘していると、赤いシャツのお兄さんが入って来た。私と同様、店内をさっと見回った後、いきなりレジのご婦人に話しかけて来た。
「映画だとずっと広く見えますが、実際は狭いんですね」
ああ、ここんとこそういう人も増えているんだろうなと思っていると、
「実は私、映画の関係者なんです」
ほぉ?
「音楽を作ったんですよ」
おいおい。
・・・・・・・・・・・・
ちょっと驚いた。ご尊父の顔は、生でおそらく2度(シンポジウム)、写真では限りなく何度も見ている。耳が自然とレジの会話のほうへ向く。俺も猫みたいじゃないか。
店内は客2名とレジのご婦人とその後ろに座っておられる店主のみ。俺だけ黙っているのもかえっておかしいので、途中からちょっと割り込む。仕事で息が上がってしまい、気分転換に自転車で見に来たとのこと。実家には以前猫がいたそうで、犬顔のおやじさんの顔を思い出すとちょっと面白かった(もちろん言わなかったですけど)。

こういうのを縁と言うんだろうか。その古書店を舞台にした映画が新宿で封切られていることは知っていた。見に行こうとまでは正直思ってなかったんだが、これで決心がついた。幸いにして3連休がすぐ来る。
で、土曜日に観に行ってきました。続きは後ほど。
私は猫ストーカー

近況をいくつか。ヒマができたらまた写真でもアップしますよ。

  • 犬のOley氏(男)と猫のMu氏(男)は元気でやってます。Muはキジトラなので岸さんとこの毛の短いほうによく似てます。うっとこはイケメン2人が人間4匹と同居しとるわけです。
  • Oleyはゴージャス白毛で覆われてまして、、彼が走るとMuには「動く猫じゃらし」に見えるらしく、飛び掛ったりするんで困ります。もうちょっとおとなしく遊んでもらいたい。ちなみに体重はMu=Oley×2で、ヘビー級vs.ジュニアライト級
  • 犬猫両方と同居してる関係で、古本選んでいてもなんとなくそっち系の文芸書などをひっかけて来ることが多くなりました。いくつか良かったものを挙げると、

[猫]

ノラや (中公文庫)

ノラや (中公文庫)

定番。
猫に名前をつけすぎると (河出文庫)

猫に名前をつけすぎると (河出文庫)

小説よりエッセイのほうが面白い。
ビーの話 (ちくま文庫)

ビーの話 (ちくま文庫)

まったり系。
グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)

グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)

結局買いました。
番外その1:
愛別外猫雑記 (河出文庫)

愛別外猫雑記 (河出文庫)

数ある猫本の"極北"。意地で最後まで読んだが、多分再読は永久にない。理由は読めば分かる。
番外その2:
アブサン物語 (河出文庫―文芸コレクション)

アブサン物語 (河出文庫―文芸コレクション)

おっさんカッコつけ過ぎ。猫と向かい合った時の自分を曝け出す勇気が足らないと思います。もっと私小説しないとつまらん。

[犬]

富士日記〈上〉 (中公文庫)

富士日記〈上〉 (中公文庫)

日記の中に飼い犬が死んでしまう話が出てくる。単著でなけりゃ鉄板でこれやろ。
三郎物語―わが愛犬たち (中公文庫 A 58-2)

三郎物語―わが愛犬たち (中公文庫 A 58-2)

やっぱり女の人は恐いです。
犬と歩けば (文春文庫)

犬と歩けば (文春文庫)

やっぱり男は単純です。

あと、畑正憲(ムツゴロウ)氏の著書はペットを飼っている人間は一度は読むべき。この人の人生の破天荒さは、ネットでググると出てくる吉田豪インタビューでも垣間見ることができるが、是非本を。動物を語らせたら、たぶん世界最強。犬については最近著書が出てます。

犬はどこから…そしてここへ

犬はどこから…そしてここへ

お久しぶりでございます。
内田樹ブログ、最近は通勤中に携帯で読んでますが、著書よりこっちのほうが面白いです。
本では(元ネタがブログであろうと雑誌エッセイであろうと)ネタがテーマ別に整理されるため、内田氏ブログの"即興芸"的雰囲気が味わえない。ごっちゃ煮でも「ライブ感」があったほうが魅力的だということです。
ごっちゃ煮ライブ(つまり現行ブログ)のまま有料化(その場合業務連絡系コンテンツは排除)したら、隔日更新ペースで月200円程度なら行けないだろうか。少なくともオレは読むぞ。(大学の先生は副業禁止なんでしょうか?)
世の勤め人の多くがそうであるように、生活時間が細切れでまとまった時間をとるのが難しい(だからブログ更新もままならない=俺)人たちにとって、ウチダブログはそうやって読んでこそ、仕事で汚染された脳みそをリセットし頭の中を活性化するその効能が最大限生きるのではないかと思いますがいかがだろうか。

イヌネコ畜生てえのはネタになるねえ。
カミさんの知り合いの某猫基地外が先日我が家に来たそうで。

  • 「尻尾なが!」
  • 「シマ模様こまか!」
  • ("夜中の運動会"を避けるため、夜は下の階で一人で寝かせてると言ったら)「すげーかわいそ! なんで?」
  • (しっぽをよくしゃぶってるよと言ったら)「変なの! 初めて見た!」

こりゃモロ電波だ。頭つかんで、B&Bの「オノダサーン」をやってやりたくなる。
やたらびっくりマークを付けてますが、本当にこんな感じだったらしいんだからしょうがない。

そういえば。
私がメルトダウン寸前だった今年の春、ysk氏が亡くなられました。
彼とは1度だけface to faceで酒飲んだことがあります。もう何年も前だけど。
漫画から名づけられた2匹の飼い猫の話や、私と同郷の(当時の)同居人の話や、かつてやっていた"危ないバイト"の話なんかをしました。
あと腐れのない、いい酒だったと思います。
どうして逝かれちまったかなあ。